どうも、めんたいです。

ありがたいことに、最近チームのことを沢山の方に知っていただいております。

今回は、そんな方々のために、また、自分が初心を忘れないよう忘備録として、このブログを書きたいと思います。



今回ちょっとお話したいのは、我々チームの基本方針である「自由」について。


多くのチームが「楽しくレースをする」「本気でレースをする」など、チームの方向性をしっかり定めているのですが、うちはそうではなく、「レースを頑張りたい!」という人や、「のんびりドライブ等を楽しみたい」という人など、色々な方が居ます。

そして、各々がその目的を達成するために、自由に、様々な活動をしていて、チームとしては、各々の活動を全力でサポートするというスタンスを取っています。

ただ、ここでは「自由」について、改めて考え直してみたいのです。



1.自由は最も重い「規則」


「自由」という言葉を聞いて、軽いような、緩いようなイメージを持った方もいるでしょう。

しかし、それはめんたいレーシングで言う「自由」とはズレてます。



「自由」は、憲法でも保障されている平等な権利です。

ですから、私の考えとしては、デザインなど、メンバーが本来自由に決めていいはずのことについて干渉するのはなんだか違うよなーと思っています。

なので、例えばチームのイメージカラーでマシンデザインを統一したり、強制的にレースに出場させたりなどをしているチームもありますが、うちはそんなことを一切していません。

ま、それはそれで統一感があっていいので、決して駄目というわけではありません。

ただ、とにかく、うちはそのへん好きなようにすればいいよ、としています。
「自由」ですから。


・・とはいえ、自由なら何をやっても許されるというわけではありません。

例えば、「法律」などのように、明確に「自由を規制されている」ケースもありますが、「マナー」や「モラル」など、明文化されてはいないけど、やってはいけないことなどもありますよね。

「マナー」の例を挙げるなら、

・「電車で大声で騒いではいけない」

・「葬式にアロハシャツを着ていってはいけない」

などでしょうか。



別に、電車で騒いではいけないとか、葬式にアロハシャツを着ていってはいけないという法律はありませんし、そのへんは各個人の自由ですが、「マナー」「モラル」といった観点から、世間的には禁じられている行為です。

つまり、自由は平等に保障されているんだけど、中には「やってはいけないことがある」ということ。


そして、「やってはいけないこと」が必ずしも明文化されているわけじゃないから、常に自分で考えて行動する必要があるということ。

これが「自由」の難しさなんです。


このチームにおける「自由」でも同じです。

別に法に触れるわけじゃなくても、「マナー」「モラル」「スポーツマンシップ」の観点から見て、世間的によろしくない行為だってある。

だから、どんな行為だって許されるわけじゃないし、時には謝罪、除名といった重い処分など、いろいろな対応が必要になることもあるのです。

だから、私は「規則を設けられる」方がよっぽど楽だと思います。

「これはダメ」「これをするとこう処罰します」って書いてあれば、単にそれさえしなければいいだけの話ですから。

ぼーっとしていたって、問題を起こす可能性は低いですもん。




2.「自由」がなくなったらチームは終わり


一度、この基本方針について少しだけ揉めたことがあります。


我々チームも、様々なトラブルに対応すべく、「マニュアル」など、規則を設けようという話になりました。


勿論その言い分もわかります。

というか、問題が起こったら、今後さらなる問題発生を未然に防ぐというのは、自然というか当たり前な流れにも思えます。


が、先にも述べたとおり、「規則を設ける」ことは今以上に規則を緩くすることであり、メンバーの思考を停止させることにもなる、と考えています。

思考停止状態になったら、いよいよチームは終わり、破滅へのカウントダウン・・だと。


・・というような旨をざっくりと伝え、一人反対を押し切りました。

結果、未だにマニュアルや明文化された規則はありません。


もし仮に、「これをやってはいけません、やったらこうなります」と記した規則があったらどうなるでしょうか?



・・もしひねくれ者がいたら、そこには書いていない「マナー違反の行為」をするかもしれません。

その場合、どう対応すればいいのでしょう?

マナー違反なのだから、当然罰するべきなのか、やってはいけないとかいてないのだから、今回は見逃すのか・・


こんなことになった時点で、もう詰んでます。終わりです。


明文化したところで、六法全書みたいなものは作れないのですから、絶対に抜け穴が存在してしまうのです。

(現に六法全書だって完璧なのかと言われると・・?)

その抜け穴を塞ごうとした結果、曖昧でよくわからない、校則のようなカオスが出来上がってしまうのです。



・・だったら、やーやー言わずとも、各々に考えてもらって、「善悪の判断」を任せれば良いんじゃないですか?って思うわけです。

端から規則なんて設けずに。


それが「自由」という基本方針の、根本にある思いです。



まとめると、



「目標は何でもいい」という基本方針としての「自由」

「常識の範囲で、何をやってもいい」という規則としての「自由」

ひっくるめて、めんたいレーシングとしての「自由」



というわけです。


自由が規則ってのも、ぱっと見よくわからない話ですが。



それでは。

カテゴリー: Driver's Blog